生活百花

生活をちょっと良くするものを紹介。

戦国時代で最強の軍師は誰!?最も頭が切れた知将・策士トップ5位!

f:id:kumakuma30:20190624095728j:plain

画像引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nagashino_Teppo-Ashigaru.jpg

おはようございます。大河ドラマ歴史小説、はたまたゲームまで、戦国時代を扱った作品でいつも目を引くのは「軍師」ですよね。

常に冷静で、知能一つで状況をひっくり返してしまう様は、作品の見せ所と言えます。

今回は「戦国時代でもっとも頭が良かった軍師って誰なの?」というのを紹介する記事です。

 

目次

 

・そもそも「軍師」とは何なのか?

軍師(ぐんし)は、中において、軍を指揮する君主将軍戦略指揮を助ける職務を務める者のことである。このような職務を務める者は東アジアにおいては古代から軍中にみられたが、ヨーロッパでは近代的な軍制において参謀制度が確立するまで制度としては存在しなかった。 知将、策士などとも言われる。

引用:軍師 - Wikipedia

 つまり、もともと軍師とは合戦中にのみ作戦を考えたり大将にアドバイスをする、まさに「参謀」のような役割が本来の意味です。

しかし日本で「軍師」と言えば、合戦中に限らず内政や外政など、幅広い分野で主君にアドバイスを与える、「とにかく頭がいいNo.2」というような使われ方をしています。

実際、何をするにも非常に頭が切れていて、常に主君にアドバイスをしていた家臣というのはたくさん存在します。今回はそういう意味での「軍師」を対象に、もっとも頭が良かったのは誰かを決めていきたいと思います。

 

・戦国時代で最強の軍師トップ5位!

5位 直江兼続

f:id:kumakuma30:20190624123451j:plain

画像引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Naoe_Kanetsugu02.jpg

まさに知将であり忠臣であり、いかにも軍師という人です。

幼少期に上杉景勝の母・仙桃院に見込まれ、景勝の近習に取り立てられます。そしてその後、死ぬまで景勝に仕える事になります。

 

御館の乱の後、上杉家の当主となった景勝は「上田衆」と呼ばれる面々を重用して行きます。この中に兼続も入っていました。その後も名門である直江家を継いだり、天正壬午の乱新発田重家の乱などの動乱の中で功績を上げ、徐々に筆頭家老としての地位を確固たるものにして行きます。

上杉家が豊臣家に臣従するようになると、佐渡平定、小田原征伐文禄・慶長の役などでも大活躍し、豊臣秀吉からも高く評価されるようになります。

その後、豊臣秀吉が死亡すると、天下人の後継者争いとして石田光成と徳川家康が対立を始めるようになります。世に言う「関ヶ原の戦い」です。この時に直江兼続は「直江状」という徳川家康をボロカスに批判する手紙を書き、全国にバラ撒いて家康に宣戦布告した事で有名です。

しかし関ヶ原では三成率いる西軍が負けてしまいます。兼続は徳川家に謝罪。その後は、上杉家と徳川家の関係改善や、上杉家の内政を整える事に奔走する事になります。

こうしてみると、世間では名軍師として知られている人物ですが、実質的に家内を取り仕切って執政にも近い形だったと言えますね。しかしそれでも謀反などを起こさなかった忠誠心が凄いところです。

 

4位 竹中半兵衛

f:id:kumakuma30:20190624160827j:plain

画像引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Takenaka_Shigeharu.jpg

言わずと知れた名軍師。軍師と言えば竹中半兵衛が思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか。

最初、半兵衛が従えていた斉藤家は、織田信長の侵略に悩まされていました。それでも当主が斎藤義龍の時代はよく凌いでいたのですが、その息子の斎藤龍興は当主を継いだ時点でまだ幼く、家臣内に動揺が広がります。

それを見た信長はもちろん斎藤家を攻めますが、半兵衛の戦術によってこれを撃退します。

しかしその後も龍興は酒に溺れ、内政に励もうとせず、優秀な家臣たちも冷遇したりします。それを諌めようとした半兵衛は、わずか16人の手勢で稲葉山城を乗っ取ってしまいます。

そして龍興を反省された後に城を返すも、やはり斎藤家は上手く行かず滅亡。その後は半兵衛は浪人生活を送っていました。

その半兵衛を信長が家臣にしようと思い、豊臣秀吉を使いに出します。その時、なんと秀吉の器量を見抜いて彼に従える事を決意。これが有名な「三顧の礼」です。

その後も信長包囲網を打開するために調略面で活躍したり、秀吉の中国遠征でも活躍したりしますが、病に倒れてその途中に死亡します。

ものすごく頭のいい人物だったというのは伝わりますが、やはり寿命が短く活躍してる期間も短いので、この順位となりました。

ちなみに黒田官兵衛との関係は、信長に謀反を起こした荒木村重という人物がいました。その荒木村重に考え直すように説得する役目として官兵衛が送られたのですが、そこで官兵衛は村重に捕まってしまいます。

それを信長は官兵衛も村重と共に寝返ったと誤解。そして官兵衛の息子の首を差し出すように言いますが、ここで半兵衛が機転を利かせて偽の首を差し出し、官兵衛の息子を救います。

後に助け出された官兵衛ですが、その時には半兵衛はもう亡くなっていました。官兵衛は非常に感謝して竹中家の家紋を使うようになったという話です。

こういうエピソードがありますが、二人が生きてる間に秀吉のもとで一緒に仕事した期間は、そう長くは無かったと思います。創作のように二人で連携を取っていた場面もあるとは思いますが、まるでコンビのような関係だったわけではないですね。

 

3位 太原雪斎

もしかすると名前を知らない人もいるかも知れませんが、実はめちゃくちゃ凄い軍師です。

今川義元の教育係も勤め上げ、義元が当主になってからも敏腕を振るいました。

今川義元といえば桶狭間織田信長に敗れたという印象が強いですが、実は武田信玄北条氏康も一目置いていた名将です。なぜ信長に負けたのか、というのは非常に難しい話なので、機会があれば記事にします。

ともかく今川義元は信長に負けなければ上洛を果たしていて、天下人になる可能性すらあった名将なのです。そしてその上洛の可能性を作ったのが「甲相駿三国同盟」と言われる同盟です。

これは甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、そして駿河今川義元の3国がそれぞれ同盟を組み、上洛中に留守になる今川家の領内に手を出させないための同盟です。

この同盟は、武田家にとっては海に出るルートが閉ざされ、北条家に取っては上洛路が閉ざされるので、今川家にもっとも有利な同盟だったと言われていますが、それを善徳寺でまとめ上げたのが雪斎です。

なんだかアッサリと書いてしまいましたが、武田信玄北条氏康という名将相手にここまでの同盟をまとめ上げるのはめちゃくちゃ凄い話ですね。

臨済宗の僧侶でもあり、当時としては教養そのものだった宗教にも深く通じていたという事で、まさに君主を支えた知将と言えます。

 

2位 黒田官兵衛

f:id:kumakuma30:20190625025928j:plain

画像引用:http://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2013summer/walk/index.html

言わずと知れた大軍師。豊臣秀吉を天下泰平へと導き、秀吉没後も猛威を奮った名将。

この方のエピソードを上げていくとキリがないですが、今回は2つ紹介したいと思います。

一つはやはり「中国大返し」です。秀吉は中国遠征の最中、本能寺の変明智光秀が謀反を起こし、織田信長が討ち死にした情報を真っ先に入手する事ができました。

悲しみに暮れていた秀吉ですが、ここで官兵衛が有名なセリフ「ご武運が開けましたな」と告げ、真っ先に信長の敵を取るように進言します。そして実際に毛利と和睦を結び、撤退するまでの流れを主導したのも官兵衛だったと言われています。

まさにこの官兵衛がいなければ秀吉が天下を取る事も難しかったでしょう。

そしてもう一つのエピソードは、関ヶ原の戦いの最中です。官兵衛は関ヶ原が長引くことを予想し、本戦にはあえて参加せず、兵を集めて九州で領土を広げようとします。

これがものすごいスピートで、予定通り関ヶ原が長引いていれば、九州を統一した官兵衛が海上を封鎖し、徳川家康に対抗できる勢力になっていたかも知れないのです。

つくづく、チャンスを活かすのがものすごく上手い武将ですね。

しかしこの目論見を破ったのは、なんと官兵衛の息子の黒田長政です。彼は関ヶ原に参加し、あの小早川秀秋吉川広家が寝返るように凋落した本人だとされています。

これによって関ヶ原の戦いは早期に決着が付いてしまいました。

その後、長政が官兵衛に「家康様が私の片手を取って喜んでくれた!」と報告したのですが、官兵衛は「その時、もう一つの手は何をしていた(その場で家康を刺せばよかったのに)」と言ったそうです。

この2つのエピソードだけでもいかに官兵衛が頭の切れる人物だったのか、伝わればいいなーと思います。堂々の2位です。

 

1位 本多正信

f:id:kumakuma30:20190625031237j:plain

画像引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Honda_Masanobu02.JPG

さてさて、魅力的な軍師がたくさんいる戦国時代において、すごく迷いましたがこの人が1位です。最終的に徳川家康に天下を取らせた知将、本多正信さんです。

 この人はとにかく、人生が面白い。まず家康の鷹匠として取り立てられながら、一向宗だったので一向一揆という一揆に参加します。

その後、家康の領地・三河を飛び出し、各地を放浪。なんと戦国一腹黒い男として知られる松永久秀に従えていた時期もあったそうです。

 久秀は正信を「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評価しています。

そもあれ、そんな紆余曲折が下積みとなったのか、徳川家に帰参してからは大活躍をします。まずはあの伊賀越に付き従い、家康の命を守りきります。

その後は家康の領地となった旧武田領の統治を担当し、見事に旧武田家の家臣たちを取り込みます。戦国最強とも言われていた彼らが徳川家でも将兵ともに活躍した事を考えると、これは大きな功績ですよね。

関ヶ原では秀忠にあの真田を無視して通り過ぎるように進言しましたが、聞き入れられず。結果、秀忠は大遅刻をし、家康に激怒される事態になってしまいます。

家康の将軍就任についても朝廷と交渉したのは正信だとされています。

このように内政・合戦、どちらもセンスがあり、家康に「友」と呼ばれているほど慕われていたのを見るに、きっと細かく堅実なアドバイスを日々出していたというのが推測できますね。

さて、更に凄いのが家康が幕府を開いてからです。正信は家康の側近となり、実質的に幕政を取り仕切っていたとされます。そして大久保長安や大久保忠隣を失脚させたのも正信だとされています。

ともかく、あの260年も続いた幕府の基礎を作ったのは、本当に日本史にとっても大きな働きをした人物だと思います。なので1位にさせていただきました。

 

・まとめ

 以上、飽くまで一人の歴史好きの主観ではありますが、最強の軍師ランキングを作らせていただきました!

やっぱり今回の記事を書くにあたって改めていろいろ調べてみましたが、やっぱり戦国時代の軍師は魅力的ですね。他にも紹介したかった軍師が沢山いるので、機会があれば加筆して行きたいと思います!

最後までお読みいただきありがとうございました!